外国暮らしの病

心の病を患って数年。なんと海外に飛び出ちゃいました! そんな私の留学生活日記。→帰国しました

強迫性障害女が決断への道で迷子になった話

私は強迫性障害、通称OCD患者。

正式な診断を受けたのは2年前だが、これとの付き合いはもう10年になる。

もはやこのことを隠しもこの事実から逃げる必要などない。

もちろん診断された当初は恥ずかしかった。

強迫性障害は「障害」ではない。心の病だ。

しかし、日本ではあまり認知されていない精神疾患だし、家族ですら甘えだと見なすような症状の数々。書店で情報を集めようにも、ほとんど言及されている本がない。

鬱とかPTSDとか似たような病気についてはとりあげられているのにと悲しくなったほどだ。

知られていない上に、名前に「障害」と付くこと。

私は倦厭されるのが怖くて、友人には誰にもこの事実を打ち明けられなかった。

しかし、無理は出てくるもので悪化するにつれて明らかに他の人とは違う行動が目立つようになってしまった。

大学の講義中。私は教授がプリントを地面に落とすのをひどく恐れたし、友人にノートを貸すのも躊躇ってしまって、自分でコピーしたものを渡すようになった。

これは不潔恐怖というものだ。

私の場合、土が異常なほど怖い。だから、地面に鞄を置くこともできないし、それに触れた友人ですら、恐怖の対象になってしまう。

体育の授業がある日は特に大騒動だった。

更衣室に土足で上がる人たちに怯え、ロッカーに荷物を入れるのも苦労し、また靴という地面に近い存在に触れねばならないことに耐えなくてはならなかった。

そして、家に着くと始まる洗浄強迫。もう、何もかもを洗いたくて仕方がなくなるのだ。洗濯機を回すのをやめられない。入浴に信じられないほどの時間がかかる。

洗っても洗っても汚れが残っている感じがして繰り返してしまう。

自分を信用できなくて、母に電話をかけて何度の確認行為をしたことか。

周りを巻き込んでしまう度に申し訳なくなって、自分を責めて、またストレスが溜まって、症状が悪化する。

苦手な曜日ができて縁起強迫にも囚われるようになった時、私はもはや人としての最低限の生活を送ることさえ困難だった。

逃げたかった。実家に帰りたかった。誰かに止めてほしかった。

毎日のように咽び泣いて出した結論は休学。それ以外に手はなかった。

しかし、私には帰れる場所がなかった。

きょうだいに受験生がいたので、勉強の邪魔になるからと地元に戻ることは許されなかった。私を出来損ないだと揶揄してきた親戚を頼ることも、病気を打ち明けることもできない。

いっそ、誰も私のことを知らない世界に行こうと思い至ったのがきっかけだった。

そして、数ヶ月後には異国の地を踏んでいた。

語学留学を決めたのだ。私を受け入れてくれる学校もホームステイ先も見つかった。クラスメイトも積極的に私の症状を聞いて、嫌がることはしないでくれた。中には、父親が心理学の教授だという子もいて、私のことを理解し支えてくれた。1人に正確に伝われば、その子が別の生徒に母国語で翻訳してくれることもありがたかった。

思った以上にOCDは伝わる単語だった。

私の受けた最初の授業は偶然にも恐怖症についてだったことをよく覚えている。英語ではphobiaという。潔癖症はmysophobia。これだけでも、私のことを知ってもらうには十分な単語だった。

さて、月日は流れ留学生活も2年目に突入した。

来年度には復学しなくてはならない。2年以上続けて休むと退学になるのだ。

この頃、私は自分の未来について大きな不安を抱えるようになった。

今までは、どうやって生活を取り戻すかが焦点であったが、さまざまな価値観や出来事に揉まれて症状も軽くなってきた。それでも、普通の社会に混じって暮らすのには無理がある。

私のいる国では、充分なケアを受けられる。そんなに珍しいものでもなく、OCDの人と会ったこともある。

しかし、日本に帰って1人で住むとなると……さすがに厳しいものを感じる。

実は3月に一時帰国を果たした。大学での友人には伝えられなかったが、リハビリのように、中学時代からの友人に強迫性障害のこと、実は留学していることを話した。知らせていない人の中には私のことを病んでると休学の事実だけで馬鹿にする子もいる。でも、それもどうでもよくなった。

話の切り出し方にすごく迷ったし、海外では自己紹介の段階で言っておかないと不備が生じるから平気で教えるようにしているけど、日本人からの反応は芳しくないので、非難されないか心配だった。

それでも、実際は「そんな風になって、よく行こうって決心したね。がんばってるね」と認めてもらえた。本当にうれしくて、涙が出た。

もう、隠すのはやめようって素直に思えるようになった。これが私の一部であることに変わりはないと。

現地の語学学校に戻ってから、新たにクラスメイトとなった人たちにも伝えた。以前にも同じ教室で学んだ人たちもいて受け入れてもらっている。

しかし、その環境が私の心を揺さぶっているのも事実だ。

長期留学なので、私のレベルは順調に上がり周りは現地の大学を目指す人ばかりになってしまっている。みんな、目標を持って高みを目指している。私にはその姿が眩しすぎた。

今の私はスコアを取る必要もなければ、受験勉強の必要もない。虚無だ。

ありがたいことに、高校時代を学問に捧げた結果、それなりに良い大学とご縁ができた。それでも、貪欲な私はもう1つ上の教育施設に行こうとする彼女たちが羨ましくて仕方がないのだ。

大学院を諦めて留学する。それに後悔はない。それでも、高校を卒業したばかりの若い子が、英語だけを使ってずっと地位の高い所に行く。未来が、可能性が私よりもずっと大きくて、応援しているのに心が痛む。

私はきっと将来、社会に出て働けないだろう。大学に戻っても、上手くやっていけるかわからない。その日の症状によって、できることとできないことが変わる不都合さ。何事にも適合できない苦しさともどかしさ。減らせない薬の量と副作用。

あまりにも世の中に馴染めない存在になってしまっているのが自分でもわかる。

今日、日本人のクラスメイトに改めて尋ねられた。

「ドアノブは触れるの?」

答えはもちろんNOだ。

前にも同じクラスになったことがあるから、私の症状をよく知っている彼女からの疑問。私もその日その時になってみないとわからないとしか表現の仕様がないのが申し訳ない。

会話の中で「大変だね。生きにくいでしょう。よくそんな症状になってから来ようって決心したね」と言われた。

最近ではよく聞くフレーズだけど、私には当然のようにその道しかなかった。それだけ。

私にとって勇気がいったのは留学より休学を決めた時だった。

罪悪感に押し潰されそうだったのを記憶している。そして、大学に戻る時が近づいてきている。それもまた怖い。

だから現実逃避。

英語関係の試験を受けることを目標に最後の時まで勉強しようとか。

そうしたら、自信がつくかもしれない。

試験会場に行ってテストを受けることも強迫性障害者には難しい。預けなくてはならないから電子機器は持っていけないし、パスポートに触れられるのにも抵抗があるし、綺麗かもわからない机に筆記用具を置くことも心に負担がかかる。

会場に辿り着けるかも、その日の体調次第。

それでも、もしできたなら、それは私の力になると思う。

この先のカリキュラムでたくさんの試験が私を待っている。

でも、決めたのは私。そして、強迫性障害が私の背中を押してここまで連れて来てくれた。

これからもずっと悩むだろう。

思考はグルグルとしていて、右往左往している。

自信も自己肯定感も全然ない。

社会の落ちこぼれだってわかっている。

それでも、私はこの迷いと決断の過程を繰り返して生きて行くのだろう。

いつか、私の経験を誰かの役に立てるために。